博多明太子とは

福岡の歴史に明太子が登場した~辛子明太子創業はこうだった

福岡の味覚を食卓で手軽に楽しめる、絶品のご当地グルメといえば「博多めんたいこ」

絶妙な辛さと濃厚な旨味がクセになる、博多の誇る一品ではないかと勝手に思っています。

そして、博多めんたいこは、福岡県を代表する郷土料理の一つとして、福岡のラーメン屋や居酒屋などで提供されるほどの定番メニューにもなっています。

博多駅のみやげもん市場には、めんたいこ売り場が並び、旅行客のお土産商品としても、全国的な知名度も上がっています。

あくまで「明太子の歴史」を紹介するうえで必要な情報・資料だということでご理解ください。
明太子の誕生から今日までの歴史を深堀してます。

その明太子の歴史を語る上では外せないのが、、博多区中洲に本店を置く「ふくや」です。

創業者である川原俊夫(これ以降、敬称略)さんが、戦後に韓国釜山から引上げてきて、当時の中洲市場で明太子のふくやを始めたのが、(1948年)昭和23年10月5日ですから、その日から明太子が世に出たきっかけです。ふくや創業時

明太子の語源ですが、その明太子はタラコで、スケトウダラ(スケソウダラ)とも言われるの卵です。
スケトウダラは日本海やオホーツク海、ベーリング海、カリフォルニア州沿岸に多く住んでおり、そのスケトウダラのことを朝鮮語でミョンテといい、漢字で明太と書き、日本語読みすればメンタイですね。

その卵なので、朝鮮語でミョンチコ、これが訛ってメンタイコになっています。

この卵を加工して、辛子明太子と呼んだり、味の明太子と呼ばれるようになりました。

ふくや創業者の川原ご夫妻のプロフィールを簡単にご紹介しておきます。

川原俊夫は1913年(大正2年)に川原家の二男として釜山市で誕生。川原家は、明治後期に釜山に渡って「川原回漕店」という商店を開き、海運業を行うかたわら現地の日本人向けに海産物や缶詰などの販売を行っていました

川原俊夫は釜山公立中学校を卒業すると、1930年(昭和5年)に満州の電力会社「南満州電気株式会社」に入社し、奉天市(ほうてん-し)へ移住しました。

そして1936年(昭和11年)には、創業者の妻となる田中千鶴子とお見合い結婚をしました

田中家は「釜山物産組」という海運会社を営んでおり、同じ福岡県の糸島郡出身であったことから両家は仲が良かったようです。
川原千鶴子は100メートル走で朝鮮全土の女子最速記録を樹立し、アムステルダムオリンピックメダリストの人見絹枝より日本体育大学への推薦を打診された事もあった人物でした。

川原俊夫は1942年(昭和17年)には新京の本社に転勤し、「防衛課」の職員として発電所の避難計画の策定といった業務に携わっていました。

そして、1944年(昭和19年)に陸軍に召集(しょうしゅう)されて独立混成第59旅団・独立歩兵第394大隊の一員として伊良部島に配属されて、太平洋戦争末期の沖縄戦があった、宮古島で終戦を迎えています

終戦後は引揚者となり、博多港に到着し、そこからめんたいこ作りの第一歩がスタートすることになります。
ふくや創業者の川原夫妻が戦前に住んでいた韓国釜山の裕福な家では寒くなると、使用人や出入りする業者が総出でキムチを漬けていたそうです。
大根、人参、せり、からし菜、生姜、にんにく、ねぎ、赤唐辛子、それにエビやタラコやカキ、イイダコまで色々と樽の中に入れて、そこへ塩をいっぱい振って樽漬けにしていました。

樽に入れた具材の味が染み出て、キムチが完成するのです。

釜山の海産物屋でもよく売れて、舌がちぎれるぐらいに、唐辛子をいっぱい入れて辛く漬け込んでいるそうです。

当時は日韓併合時代で、釜山には5万人くらいの日本人が住んでいたと言われ、下関と釜山を約7時間で結ぶ関釜連絡船があり、福岡出身の人も多かったそうです。
そうした人たちに欠かせないお惣菜(おそうざい)はキムチやタラコでした。

こうして、川原夫妻が子供時代に釜山で見てきたキムチ漬け、タラコ漬けの状況が博多明太子の原風景になっていきました。

引き上げ後の二人は天神でしばらく露天商をしていましが、どうしても、明太子の味が忘れられず、当時の原風景になった、めんたいこの味を再現すべく第一歩が始まるのです。

1945年(昭和20年)6月19日から翌日の6月20日まで

アメリカ軍により行われた福岡空襲で、
焼け野原になっていた中洲の再建策の一つとして、企画された中洲市場25軒を引揚者にという入店募集の新聞記事を目にしたことです。

応募に積極的だったのが奥さんの川原千鶴子さんで、ご主人を三日三晩口説き続けたそうです。

そして、ご主人も奥さんの熱意に負けて、じゃやってみるかと応募した結果入店を許され、昭和23年(1948年)10月5日に、兄の借家から大八車にあるだけの荷物と幼い長男・健(たけし)を乗せて引っ越ししたのです。

そして、この日を、ふくやの創立記念日としました。

川原俊夫の兄の店が釜山で漢字で「富久屋」という屋号だったので、平仮名で「ふくや」という屋号にしました。

入店できたとはいえ、戦後の何もない時ですから、生鮮食品(せいせんしょくひん)は手に入りません。そこで、干し魚(ほしざかな)、干し椎茸、高野豆腐(こうやとうふ)など乾物食品を並べるだけの状態でした。

戦後のモノ不足の時代ですから、まともな店頭販売にはならず、これではやっていいけないと考え、二人がよく食べていたタラコを売ろうと、タラコを韓国から取り寄せたのですが、輸入できたのは日本人向けに加工されたタラコでした。

食べてみると、自分たちが釜山で食べていた美味しいタラコとかけ離れていました。
それなら、自分たちで作ろうと思い立ち、苦労して材料のタラコを取り寄せてみるものの、届いた商品は、とても使い物にならないクズものだらけでした。

自分たちの理想のタラコ探しに苦労を重ね、北海道産のタラコは粒が太くて粗いので日本人の舌によく合いそうだと考え、やっと北海道近海のタラコを買えるルートが見つかったのです。

味付けは夫婦二人の舌だけが頼りに、それでも作っては捨て、作っては捨てる日々が続き、店に出せるタラコができるま約二カ月近くかかりました。

そして、昭和24年(1949年)1月10日に第1号の明太子が誕生したのです。
やっと完成した明太子を店頭に並べたものの、期待を大きく裏切る結果となり、その日から10年ぐらいはまったく売れなかったそうです。

当時は、ガラスの陳列ケースが希少で高く買うことも出きず、金魚鉢をキレイに洗って、その中へ明太子を詰めて店に並べていました。
知名度も無い、明太子はなかなか売れず、作っては捨て、作っては捨てる状態が続きましたが、あきらめなかった夫婦の努力が少しずつ実る日が近づいてくるのです。
思えば、現在、数千億円規模(すうせんおくえんきぼ)の明太子産業が金魚鉢からスタートした感動的な歴史があったのです。

昭和30年代から戦後復興となる高度経済成長期にのり次第に福岡の町が復興し、中洲も賑わいだして、ふくやの店の売上も上がっていきました。
しかし、売上は上がるものの、肝心の明太子の売上が延びずないので、喜ぶ暇はありません。明太子の製造販売を続けられたのは、ただ夫婦二人が明太子好きだったからです。

冷泉小学校先生の口コミ

その明太子が売れだすきっかけとなったのは、お昼の弁当のおかずにと買ってくれていた、近くの冷泉小学校の先生方でした。
買われた先生が食べてみると「案外うまかな」となって、先生たちの口コミで宣伝され、その評判が校区いっぱいに広がっていきました。

こうして中洲で明太子は知られるようになり、昭和25年(1959年)の朝鮮戦争の特需景気と博多どんたくや山笠の復活が重なり東中洲は賑わっていきました。

昭和35年(1960年)頃から、中洲の小料理屋の酒の肴(さかな)に明太子が「よう合う」という評判が広がり、大口注文が増えていきました。

ふくやの明太子が美味しいとなった秘訣は、川原俊夫が材料の仕入れを吟味し丁寧に作り、奥さんの千鶴子さんが主婦目線で味付けを担当していたことが原点で、この仕組みは従業員へ受け継がれています。
材料選びには厳しくて、北海道の羅臼やカムチャッカ近海のものを買っていましたが、まずサンプルを吟味し、納得したものだけ仕入れるので、川原さんと問屋との取引は真剣勝負でした。

産卵直前の暮れから3月にかけてが漁獲に好適な時期で、獲れたタラコを十分に選別してから、唐辛子や、かつお節、昆布など色々な材料でブレンドした調味料に3日間漬けて熟成させ味を染み込ませていました。

今のように十分な冷蔵施設はなかったので、鮮度に一番気をつけて、工場一体となって品質と安全にこだわり美味しい明太子を作りを徹底。

昭和39年(1964年)東京オリンピックが開催され、東京に全国の名産品(めいさんひん)が集まるようになり、東京にいる明太子ファンからも、明太子の希望が増えて、出品することになり鮮度を落としたくないので、当時は画期的ともいえる航空便で送り届けていました。

新幹線開通で博多明太子が全国ブランドに

そして、昭和50年(1975年)新幹線が博多まで開通してから、博多のお土産として「明太子」の知名度は上がり、いくら作っても足りないぐらい、飛ぶように売れたそうです。

この頃は、明太子を作る同業者が150社になり、ライバルは増えたものの、それぞれの味の特徴を出し合い切磋琢磨して、今日の明太子産業になっているのです。

今でこそ、明太子は博多駅やデパート、スーパー、コンビニ、通販で売られるようになっていますが、まだ「ふくや」でしか売っていない時代は、東京や大阪のお客さんがどうしても欲しいと言われるので、デパートのバイヤーが現金を持って、ふくやに買いに来ては、デパートの売り場に並べていました。

明太子の「商標権や特許」を取っていない理由

周りから「商標権や特許」をとったらもっと儲かるのにと随分、勧められたそうですが、創業者の川原俊夫はまったく関心がなかったそうです。

また、店舗があった中洲は、ご存の知通り飲み屋街として発展していた所で、飲み客に「めんたい」を売りたいので、仕入れさせてくれと頼まれることも再三あったので、それなら製法を教えるから、自分たちで作って売ればいいよとなって、マル秘製法を簡単に教えてくれることに、相手は驚いたそうです。

めんたいこの製法を教えてもらったお店は昭和23年(1948)に創業し、独自の製法を考案し現在でも中洲市場で営業中です。

このようにして、博多にいろんな種類の明太子ができて、お客さんが好みの明太子食べられるのが嬉しいとの思いから望むものには誰にでも製法を教えたそうです。
それは無一文の引上げ者夫婦を受け入れてくれて、博多のおかげで今日になれた、博多への恩返しでもあるとのことでした。

川原俊夫の商売の哲学である「一流商品は、いちばんいいものをいちばん安く売ることばい。いちばんいいものを、いちばん高く売るのは一流商品じゃなかばい」にこだわり続け、現在に継承されています。
川原俊夫は自分の時間やお金を仕事以外の町つくり、人づくりにも積極的にとても熱心でした。
晩年には高額納税者番付に掲載されるほどの財を成しますが、自身の蓄財にはあまり関心がなく、寄付を好んでいました。

また自他とも見認める「山笠(やま)のぼせ」であり、自身も毎年山笠に参加していましたこのためか、現在でもふくやの店内には中洲流の法被をモチーフとしたのれんが使われている。また社員にも地域活動・いっかんとして山笠への参加を奨励していました。

身長170㎝と当時としては大柄で、坊主頭であったことから、博多区の東公園にある日蓮上人像に例えて「中洲の日蓮さん」と呼ばれていました。

ゴンちゃんも山笠の集団山見せで、中州流れに台上がりしていた創業者を見た記憶が残っていますね。

そして、1980年(昭和55年)にはハワイへの海外遠征を計画していたおり、この年に体調を崩し、病院の検査でおかしいと言われ、山笠のお汐井取りを済ませてぐに入院したのですが、その年の山笠が終わって二日後の昭和55年(1980年)7月17日に亡くなりました。

享年67歳でした。

川原俊夫の生涯を演じた「めんたいぴりり」では 博多華丸が川原俊夫を演じて、博多座やテレビ、映画で評判となりました。

明太子は、酒のおつまみだけではなく、熱々のご飯にそのままのせて食べたり、おにぎりの具にしたり、バターやマヨネーズと混ぜてパスタのソースにしたり、フランスパンにバターとマヨネーズを混ぜた辛子明太子を塗って「明太子フランス」にしたりと様々な料理に利用できます。
こうして全国ブランドになった「辛子明太子」は「スケトウダラ」の卵を使用している事が条件で、全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会マークが商品についているかどうか、美味しい明太子選びのポイントにもなります。
このマークは商品内容や包装、値段と容量や広告表示に嘘がないかを検査されて合格した明太子です。

つまり、他の魚の卵巣(卵)を使用しているものは「辛子明太子」とは名乗る事はできません。「スケトウダラ」以外の卵巣(卵)を使用している場合は代わりに「めんたい」、「明太子」、「明太子風」などと表示してあるので注意が必要です。

ということで博多明太子の歴史を解説しました。
【参考資料】
福岡歴史発見より許可をいただき転載しています。
・福岡百年史・博多に強くなろう・地形と歴史から探る福岡・朝鮮半島史

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